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実際のところ、ガリレオは数ある証拠の中からわかっていますが、いわゆる思い通りの自白を引き出すための激しい拷問などはされておらず、審問中も検邪聖省にある快適な部屋をあてがわれ、メディチ大使邸の料理人によって食事が作られ、召使を伴い、手紙を受け取ることも出すことも許されていました。

それで、この『軟禁』というのがどの段階の話でいつのことか知りませんが、異端審問所がガリレオに下した無期限の投獄という重い判決は、判決の翌日に議論されつつもさっそく減刑されたものの、下ったことは下りました。

そして、メディチ荘に移されたガリレオは、ニッコリーニの努力もあって、7月上旬には友人だったアスカニオ・ピッコローミニ(シエナ大司教である)のもとでの軟禁となりました。

住んでいた元のアルチェトリ(フィレンツェ郊外、現在は天文台がある地域)にある自宅に戻ることができたのは、その半年後となります。

そして、検邪聖省によって課せられた、人を呼ばず、来訪者と会話してもならないという条件は、やはりこれもその後緩和されました。

結果として、のちにガリレオの伝記を書くことになるヴィヴィアーニ、真空の発見者として知られるエヴァンジェリスタ・トリチェリらが住み込みの助手としてガリレオの科学研究のため、ここアルチェトリで働きました。

有罪判決後もガリレオは学究を進めていたのです。

このアルチェトリで、最晩年の著作が1636年に著されました。

その内容は地上の物理──つまりは力学で、天文学に関することは減刑されたとはいえ重い処分が下されていましたから、当然ながら含まれていませんでした。

そして、このアルチェトリの家で、ガリレオは1642年1月8日に死去しました。

許可を得て外出することはできたので、実質のところは有名無実であるともいえますが、自宅軟禁という処分は終生解かれませんでした。

だから、結果としてはだいぶ緩い処罰なのです。

ちなみに、嫌疑がかけられた当時のガリレオは、トスカナ大公付き首席数学者兼哲学者という高い身分にありました。

だから何か容赦されたというわけではないのですが、よく言われるような在野の天才学者が世を専断する大いなる宗教権力と世のため学問のために闘い、けっきょくは狡猾な権力者の罠によって敗れたものの彼は初期近代科学における啓蒙的英雄であった、というような話ではないです。
@dairioutou
ヨウキ@dairioutou
ガリレオの軟禁って地動説自体は「数多ある仮説の一種」程度の扱いで、実際はその著作で教会をコケにする書き方した上に修正指示をガン無視したからじゃなかったっけ?
だいぶ前に聞いただけだからソースは特にない。が、ガリレオ以前にも地動説に近い学説は出てたけど特に何も言われてなかったはず
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補足として。

昨日のスペースでも聞かれてちょっとかわしたけど、結果的にはこんな感じだと思います。
@boots_fleck1
Amictica sal vitae.(新アカウント)@boots_fleck1
しぶしぶ守ったり、思いとどまったりしましたが、数年後には態度を変えたデカルトみたいに普通にすぐほとぼりも冷めてきて、十数年以上たつと普通にこの件に反駁したり文句言ったり、その間もその先も天文学研究はどんどん進んで、まあほかにニュートンとかもすぐきますしね。

ルネサンスと比較して少しの揺り戻しとなるこの件は、だいたい当時の政治的な部分がデカいので、それゆえ波紋は概ね限定的で、とくに何世紀も影響したとかそんなことはないです。

そもそも、ガリレオ裁判というのは、そのはじめや過程の最初はともかく、実際は天動説と地動説のいずれが天文学の理論として妥当なのかという「数学的な問題」としてではなく、聖書の記述と反していること、キリスト教を危機にさらす問題としてとらえていたのです。

だから、当時のプロテスタントとの関係など政治事情や社会不安の比重が大きいんですよね。
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ちなみに、許可を得れば外出できたので自宅軟禁の実質のところは有名無実であるともいえますがなどと書きましたが、ガリレオの外出に関しては、制限されていたものであったことは明らかです。

死ぬまでの約9年をこのアルチェトリで住むのは、不満は多かったでしょう。
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