#統計 森元良太『統計学再入門』(2024年9月30日)の信頼度の簡易確認。 添付画像はその本のスクショに私が赤を入れたもの。...

添付画像はその本のスクショに私が赤を入れたもの。
ベイズ本人であることの証拠が皆無の怪しげな肖像画が引用されている
だけではなく
リチャード・プライスがジョージ・プライスになっていた!

いつもの肖像画を見せることによって、いつもの話をしているという雰囲気を出しながら、いつものデタラメを平気で拡散する人達。
york.ac.uk/depts/maths/hi…
ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88…
添付画像はその本のp.90より。
モーメントE((X-μ)ʳ)が(Σ(Xᵢ-μ)ʳ)/nであることになってしまっている。(Σ(Xᵢ-μ)ʳ)/nはXのモーメントそのものではなく、その推定量です。

分布を特徴付ける値をその期待値と呼んでいたりもする。(p.31)
そもそも統計学は【お墨付き】を得るための【特権的な機能】(p.1)を持っていません。
①現実の母集団に関する数学的なモデルを設定する。
②そのモデル内でχ²分布に(近似的に従う)χ²統計量を定義する。
③そのχ²統計量の値が現実の観察で得た標本の値(データの数値)から計算される値よりも大きくなる確率を(近似的に)求める。
という手続きで得られます。続く
どこからどこまでが数学的フィクション(=モデル)の中での話なのかを明瞭に説明しないと、モデルと現実を混同します。
帰無仮説「μ=15」
の両側検定での対立仮説は
対立仮説「μ≠15」
とよく書かれますが、対立仮説の実体は「μ=11」「μ=19」…のような無数の対立仮説達の集合
{ 仮説「μ=b」| b≠15 }
で、これを略して「μ≠15」と書いています。
power_M(K)=仮説Kの下で帰無仮説が棄却される確率
をKについて一様にできるだけ大きくすることです。
無数の単純対立仮説達を同時に考える点が数学的にややこしい。NPの補題一発で解決しない。
Neyman-Pearsonの理論と違って
その場合の対立仮説は「差はゼロでない」の1つだけである
と考えてしまう人は
対立仮説の概念をまるっきり何も理解していない
ことになります。
Pearsonの主張を素直に受け取れば、Neyman-Pearsonの仮説検定が、帰無仮説と対立仮説の片方の採択を強制するかのような解釈は全くのナンセンスで議論する必要がないということになる。しかし、この本では延々と議論している。

NeymanとPearsonは「__最終的な__採択と棄却の話をしていない」し、「仮説検定が不可逆な採択の手続きを強制するべきだとは全然示唆していない」
とはっきり書いてあります。証拠提示終了!
戯画化されたNPについて騙る行為は滅びるべき!
ところが、わざわざ長々と議論したがる人達がいる。続く
こういう常識的で合理的な考え方を深掘りして行く方が建設的でしょう。

Neymanの弟子のLehmannも、通常はP値を報告するべきだと言っています。
errorstatistics.com/wp-content/upl…
そのGreenlandさんの考え方については講演スライド(2022)が非常にわかりやすい。

P値を推定のための道具として扱わない誤りの繰り返しはやめるべき。
「差がない」という帰無仮説のnull P値単体を帰無仮説有意性検定(NHST)で使うだけなのは誤解の主な原因になっている。
biostatistics.ucdavis.edu/sites/g/files/…
「有意」の語を避けたければGreenlandさんの論文を参考にすれば良いでしょう。

そういう編集に同意が得られず、共著者から自分の名前を削除させた場合が一度だけあるらしい😅
添付画像 discourse.datamethods.org/t/principles-a… の終わりの2つの段落とその機械翻訳。
P値について信頼区間の側から解説したスレッド
↓

それは岩田健太郎先生も確実に知っているものです。
もしも知らないなら統計学について完全な無知なままで研究をしていることになります。
問題: さてそれは何でしょうか?
解答の解説に続く!
Amrhein-Trafimow-Greenland 2019が非常に良いです。
常識的に否定されて当然の考え方をビッグネームを持ち出して引っ張り出して議論したりせずに、Greenlandさん達のように科学的な常識に沿った議論を行うべきだと思います。
【頻度主義とベイズの区別は技術的な違いであり、哲学的な違いではない】
【「統計の哲学」は健全な方法の探求というよりも神学に似ている】

【頻度主義とベイズの区別は技術的な違いであり、哲学的な違いではない】
【「統計の哲学」は健全な方法の探求というよりも神学に似ている】
真の「統計学再入門」にはそういう視点も必要だと思います。
P値が有用な道具であること
と
「統計的有意」と言うことが有害であること
はシンプルに整合的な主張になることにも注意が必要なのですが大丈夫か?
P値が帰無仮説有意性検定のための道具だと信じている人はP値に関する理解度が低すぎる。
そして、検定する仮説はモデルのパラメータの値の設定に関する仮説になります。
相性の良し悪しについての二分法に過ぎないので、仮説自体は肯定も否定もされない。
これがP値の無難な使い方です。
統計学を科学的お墨付きが得られる道具であるかのように扱うことはやめるべき。
P値がどういう道具であるかについて語るときにも、確率的なお墨付きが得られる道具であるかのように誤解させないように注意するべき。
ベイズ主義に触れる場合には、Savageの主観ベイズ主義による意思決定論(期待リスク最小化)は、事前分布を含むモデル内部の「小さな世界」でのみ通用することについてもコメントしておかないとまずい。
「哲学的」な雰囲気で統計学について語るためには
データの数値の取得の適切さについても
モデルの妥当性についても怪しいことが普通の
実践的な統計学について有害な考え方を温存しなければいけない
のだろうなと思いました。
P値はデータの数値と特定のモデルとそのパラメータの値に関する仮説の相性の良さ(compatibility)を表す。
これと整合性がない事柄について触れる場合には「ASA声明に反する内容であること」をきちんと断っておかないとまずいです。

相性の良し悪しについての二分法に過ぎないので、仮説自体は肯定も否定もされない。
これは常識的に当たり前の話で、P値<5%なだけで帰無仮説を否定できると思っていた人は常識的な思考をできなくなっています。そういう人達が多いのでASA声明が作られた。

* 有意な検定結果(P≤0.05)は帰無仮説が誤りであり、棄却するべきであることを意味する
は誤解の典型例という扱いになっています。その理由は背後の仮定の全体(モデルの全体)に配慮していない内容になっているからです。
上で紹介した佐藤俊哉先生の講義動画でも教科書が間違っていると言っています。
こういうことを当然の前提にしてしまっても、ありがちな「哲学的」な統計学の解説はだいたい潰れるよね。
芝村(2004a) p.104
は
amazon.co.jp/R-%E3%83%95%E3…
のことなのですが、歪度と尖度について添付画像のような説明が本当に書いてあるかどうか確認できた人はその結果を教えて下さい。

添付画像はその本のp.90より。
モーメントE((X-μ)ʳ)が(Σ(Xᵢ-μ)ʳ)/nであることになってしまっている。(Σ(Xᵢ-μ)ʳ)/nはXのモーメントそのものではなく、その推定量です。
期待値μと標準偏差σを持つ確率変数Xについて
(歪度) = E[((X-μ)/σ)³],
(尖度) = E[((X-μ)/σ)⁴] - 3.
これは
log E[exp(t(X-μ)/σ)] = t²/2 + (歪度) t³/3! + (尖度) t⁴/4! + O(t⁵)
と同値です。後者の式から歪度と尖度はXが従う分布と正規分布の違いの指標であることが分かる。
log E[exp(t(X̅-μ)/(σ/√n))]
= t²/2 + ((歪度)/√n) t³/3! + ((尖度)/n) t⁴/4! + O(n⁻³ᐟ²)
→ t²/2
となることが簡単に分かります。これは中心極限定理の証明になっている。(ただし本当はFourier解析が必要)
log E[exp(t(X̅-μ)/(σ/√n))]
= t²/2 + ((歪度)/√n) t³/3! + ((尖度)/n) t⁴/4! + O(n⁻³ᐟ²)
は歪度と尖度と
中心極限定理による正規分布近似の誤差
の関係も与えています。それぞれ1/√n, 1/nのオーダーで効いて来る。
単に正規分布に近付くと言うよりもこちらの方が優れている。
この「定義が異なる量達の振る舞いがn→∞で漸近的に一致する」という事実は重要で、定義に戻って「定義が違うから違う」と説明するとミスリーディングになる場合が出て来ます。
例えば、非ベイズの信用区間とベイズの信用区間は「全然違う」と考えるのは誤りです。
だから、「定義の違い」という「1か0か」の二分法が可能なことで結論を出し続けると酷いことになります。定義が全然異なる2つの量のありがちなケースでの近似関係を考慮に入れないとダメです。
中心極限定理はその典型例。
この辺は数学に強くないと相当に苦しいので、数学に弱い人達は常に強い人に助けを求める必要があると思います。
しかしそういう仕事が杜撰になるのは非常にまずい。
特に自分のストーリーにとって不都合な文献の内容を素直に受け取らずに軽く扱うのはまずい。

Pearsonの主張を素直に受け取れば、Neyman-Pearsonの仮説検定が、帰無仮説と対立仮説の片方の採択を強制するかのような解釈は全くのナンセンスで議論する必要がないということになる。しかし、この本では延々と議論している。
母集団分布そのものとそこから抽出した標本の区別は統計学では超基本的です。

添付画像はその本のp.90より。
モーメントE((X-μ)ʳ)が(Σ(Xᵢ-μ)ʳ)/nであることになってしまっている。(Σ(Xᵢ-μ)ʳ)/nはXのモーメントそのものではなく、その推定量です。
本当は標準的な検定論を理解しているなら、そのことが分かるように書くべき。

帰無仮説有意性検定でも、Neyman-Pearson的な複合対立仮説を考えることが普通です。
例えばモデルのパラメータθに関する
帰無仮説「θ=a」の両側検定の対立仮説「θ≠a」
の実体は
{ 仮説「θ=b」| b≠a }
という無数の仮説達の集合(複合仮説)です。
帰無仮説や対立仮説は可能なμの値全体の集合ℝの部分集合によって与えられます。
例えばNeyman-Pearsonの補題が直接適用できるのは
{170}⊂ℝ ↦ 帰無仮説μ=170
{180}⊂ℝ ↦ 対立仮説μ=180
のような場合。続く

帰無仮説有意性検定でも、Neyman-Pearson的な複合対立仮説を考えることが普通です。
例えばモデルのパラメータθに関する
帰無仮説「θ=a」の両側検定の対立仮説「θ≠a」
の実体は
{ 仮説「θ=b」| b≠a }
という無数の仮説達の集合(複合仮説)です。
片側検定の場合の例:
{170}⊂ℝ ↦ 帰無仮説μ=170
{μ|μ>170}⊂ℝ ↦ 対立仮説μ>170
対立仮説は実質的に170より大きなbに関する無数の単純仮説μ=b全体の集合になります。
以下のような設定でも検定法は同じになります:
{μ|μ≤170}⊂ℝ ↦ 帰無仮説μ≤170
{μ|μ>170}⊂ℝ ↦ 対立仮説μ>170
両側検定の場合の例:
{170}⊂ℝ ↦ 帰無仮説μ=170
{μ|μ≠170}⊂ℝ ↦ 対立仮説μ≠170
対立仮説は数値b≠170に関する無数の単純仮説μ=b全体の集合であると考えます。
ずっと詳しい説明がLehmannさんの超有名な教科書にあります。検定論について語りたい人は必読。
google.com/search?q=Lehma…
そういう現代的議論を無視して「Fisher vs. Neyman-Pearson」の対立図式について語る伝統芸を披露するのはやめた方がよい。
biostatistics.ucdavis.edu/sites/g/files/…
"instructors" が赤字で強調されている。
統計学の解説の仕事をする人はこの講演スライドには目を通しておいた方が良いです。伝統的な統計学の教え方の多くを否定しています。
超お勧めの本
↓
『極論で語る予防医療』

これは非常に面白い本。売れると良い本。
【医学書となりますが、臨床医学でなく、どなたでも読めます】と著者が言う通りの本です。
maruzen-publishing.co.jp/item/?book_no=…
極論で語る予防医療
濱谷 陸太 著
香坂 俊 監修
龍華 朱音 イラスト
丸善出版
2024年7月
github.com/rmcelreath/sta…
のLecture 1より
↓

Science before Statistics
の合言葉は因果推論と無関係に私は非常に基本的で重要だと思っています。
添付画像 github.com/rmcelreath/sta… Lecture 1より
因果推論に興味がない人でも面白く読めます。
情報量の多さに「こんな本、よく書いたな!」という感じ。

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2024年7月
asakura.co.jp/detail.php?boo…
宇宙怪人しまりす
統計よりも重要なことを学ぶ
佐藤俊哉
2024
非常にお勧め↑
この手の最新の優れた文献を見るとどれもGreenlandさんの考え方と概ね同じであることがわかります。
科学的には常識的。
そこにMcElreathさんのStatistical Rethinkingを追加するとなおさらそう見えて来る。
固定された仮説(例えばμ=170)に関する単独の両側P値がα未満かどうかを見るだけの話にするようでは全然ダメ
で
例えば任意の数値aに関する仮説μ=a達のP値全体を考えた人だけが、Greenlandさん達のような考え方をしている人達に追い付いている
と言えます。
そろそろその伝統芸能はやめた方が良い。

P値を推定のための道具として扱わない誤りの繰り返しはやめるべき。
「差がない」という帰無仮説のnull P値単体を帰無仮説有意性検定(NHST)で使うだけなのは誤解の主な原因になっている。
biostatistics.ucdavis.edu/sites/g/files/…

①固定された有意水準α(例えばα=5%)で、帰無仮説θ=0が棄却されるか否かの2値的情報だけを報告。
②帰無仮説θ=0のP値を報告。そのP値は帰無仮説θ=0が棄却される有意水準の下限なので、固定されていないすべての有意水準で棄却されるか否かを報告するのと同じ。
程度問題を扱う数学(解析学)は複雑なので、程度問題も無数の仮説「θ=a」の成否で扱えるとは考えない方がよい。必要な数学がかなり違う。解析学の土俵で考えるべきです。
P値関数(=信頼区間関数)の概念の説明も疫学の教科書では普通。
閾値を設けて「統計的に有意」「有意でない」などと言うことへの厳しい批判も疫学では普通。
その辺りのことを「統計学の哲学」的伝統芸は、既存のストーリーのパターンに合致しないせいで、取り込めていないのだろうか?
まぐれあたりの可能性を増やすために候補になる仮説を増やすと、その分だけベイズ更新の収束は遅くなります。
こういう解析学的な問題を無視した確証理論には科学哲学的に価値がないと思います。

正しいか否かの2値的思考はやめて、程度を評価する解析学的思考をするべき。
Neyman-Pearsonの検定理論では検出力がより高い検定法を作る問題が基本的で、そのためには複合仮説を1つの命題扱いする考え方は不適切です。

帰無仮説有意性検定でも、Neyman-Pearson的な複合対立仮説を考えることが普通です。
例えばモデルのパラメータθに関する
帰無仮説「θ=a」の両側検定の対立仮説「θ≠a」
の実体は
{ 仮説「θ=b」| b≠a }
という無数の仮説達の集合(複合仮説)です。
帰無仮説が複合仮説の場合には複合仮説内のどの確率分布で帰無仮説が棄却される確率を全部α以下に抑える。
対立仮説が複合仮説の場合には複合仮説内の複数の確率分布についてその中で帰無仮説が棄却される確率(検出力)をできるだけ大きくしたい。
続く

Pearsonの主張を素直に受け取れば、Neyman-Pearsonの仮説検定が、帰無仮説と対立仮説の片方の採択を強制するかのような解釈は全くのナンセンスで議論する必要がないということになる。しかし、この本では延々と議論している。
Neyman-Pearsonの意味での仮説検定の採択/棄却に従う必要がないことについてPearson(1955)によるお墨付きがある。続く
力こぶを入れる所が間違っている。
帰無仮説p=0.5、対立仮説p=0.8
の場合の適切な検定法は片側検定になり、
帰無仮説p=0.5、対立仮説p>0.5
の場合も
帰無仮説p≤0.5、対立仮説p>0.5
の場合も全部同じ片側検定になります。続く
帰無仮説p=0.5、対立仮説p=0.8
の場合の適切な検定法におけるP値を見ることは、データの数値とp=0.5という設定の相性の良さの程度をp=0.8という設定との比較で見ていることになります。この場合にはp=0.7やp=0.6のような別の設定との比較でも全部同じになる。
だから、NPの意味での採択/棄却に関する議論に力を入れても意味がありません。

Pearsonの主張を素直に受け取れば、Neyman-Pearsonの仮説検定が、帰無仮説と対立仮説の片方の採択を強制するかのような解釈は全くのナンセンスで議論する必要がないということになる。しかし、この本では延々と議論している。
「検定仮説」「比較仮説」の方が分かり易かったか?

帰無仮説p=0.5、対立仮説p=0.8
の場合の適切な検定法は片側検定になり、
帰無仮説p=0.5、対立仮説p>0.5
の場合も
帰無仮説p≤0.5、対立仮説p>0.5
の場合も全部同じ片側検定になります。続く
繰り返しになりますが、帰無仮説も複合仮説になっている場合の方が多いです。
例えば、2×2の分割表の独立性検定の帰無仮説は例えば「オッズ比=1」に取れるのですが、オッズ比以外のモデルのパラメータが残るので帰無仮説を満たすモデルの確率分布は無限個になります。

最強力な尤度比検定が非自明になる。
github.com/genkuroki/publ…

帰無仮説Nornal(0,1)、対立仮説Normal(μ,1)の一様最強力検定は通常の片側検定になる
だけではなく、
帰無仮説Cauchy(0,1)、対立仮説Cauchy(μ,1)の一様最強力検定をコンピュータで視覚化せよ
もやっておくと勉強になる。続く
github.com/genkuroki/publ…
「ロイヤルの3つの問い」的な「統計学の哲学」を統計学教育に導入する流れを作った人達は進むべき道を誤ったのではないか?
Greenlandさん達が昔から言っていることや、McElreathさんのStatistical Rethinking的な説明を導入するべきだったのではないか?


























